富士山五合目ちょっと下から-富士山日和2- [富士山日和]
前回から7年後の5月の富士山です。
五合目のちょっと下から撮りました。
今年は急に寒くなって、真っ白な頭の富士山がつい最近でも見られましたが、
この年は、雪があまり残ってないですね、
・・今年がいつもと違うのか。
雪が全くなくなると、富士山だと自信を持って言えなくなってきます(^0^;)
と、yahoo!ブログさんに載せたときは書いたのですが、
コーギー幸湖さんのお散歩コースから、天気が良ければ見えるので、
雪がなくても自信をもって「富士山だー!」と言えます。
今年の4月に、幸湖さんお散歩コースから撮った富士山です。
まっしろしろ。
まだ木彫を習っていた頃、
木彫の先生が、夏の富士山を前にして、
「あれは違うわよ!富士山じゃないわよ!」
と思い切り言い切って恥をかいたことがあるというお話を伺いました。
裾野まで見えれば、富士山だとすぐわかりますが、
頭だけだと、見慣れてないとそう言ってしまうかも。
富士山の五合目のちょっと下から撮った写真です。
ちょっと秋っぽい(^_^;
5月の第一週だったと思うので、こんなもんですかね。
下界はだいぶ緑が多いですかね。
主人が夕方から夜中にかけての仕事に就いていたときは、よく夜中の富士山へ行きました。
あまり夜景は綺麗じゃなかったです。
普通の生活をしてる人々は皆、電気を消して眠っている時間でしたから。
星が綺麗だったという記憶もなくて、少し曇ってるときが多かったのかなぁ。
この夜景は、富士山から撮ったものではなく
どこだったかなー?
御殿場か、十国峠。
たぶん、御殿場だと思うのですが。
御殿場の夜景の綺麗に見える場所は、主人のとっておきの場所のようです。
歴代の彼女を連れて来た、らしい(^_^;
御殿場だけでなく、そこここの夜景の綺麗に見える場所は主人のとっておきで、
必ず彼女を連れて行ってたらしい、です(^0^;)
この頃はほとんどありませんが、
(ごくたまーに、ある)
元カノと行った所を私と行ったと覚え違いをしていて、
「ここ一緒に来たよねぇ。」
などと宣います。
「それはーどうやら私ではないのではないかと。」
と、言ったときの主人の慌てよう。ププッ ( ̄m ̄*)
ちなみに、私の好きな夜景は、十国峠から見える沼津方面?と、
中央高速からとフルーツパークから見る甲府の夜景ですかね。
この頃は、夜どこかへ行くということはなくなりました。
夜は起きていられなくなってしまいましたので。
ふつーに朝起きて、夜になったら寝る。
会津~いわき-福島にて1- [福島にて]
フィルムをスキャンして、やっとデジタル化しました。
これは、たぶん2003年の4月の始め頃だったと思います。
友人2人と主人と4人で行きました。
友人の1人が会津出身だったので、桜の時期だし行こうということになりました。
が、桜はですね、まだ固い蕾か、これは?が木に沢山あったくらい(^0^;)
おまけに天気が良くなく、雪がちらついてきて(^0^;)
以前、やはり4月の始めか3月の終わり頃に京都へ行きまして、やたら寒かったですよ。
清水寺で雪が降ってきて、帰りの関ヶ原付近で大雪になって、
除雪車の後ろをずっと走って帰ってきたことがあります(^◇^;)
関ヶ原を越えた途端、雪が降ってたなんてうせやろ(;゜ロ゜)となりました。
しかし、雪に慣れてる地域のナンバープレートをつけた車は早かったわ。
観光バスでさえ、「何とろとろ走っとんじゃ!」という感じでしたよ(^0^;)
確かに、うちとこも都心に比べたら雪は多い。
でも、高速道路上であんなになることはない(^0^;)
滅多に雪の降らない所で生まれ育った主人は無言・・・ひたすら無言・・・
会津では、ちらついたくらいで済んだので、よかったですが、
ずっと天気は良くなかったですね。
もう記憶がねー 会津のどこに泊まったんだったかなー?
主人に訊けばわかると思うのですが。
主人は寝相が素晴らしく悪いです。
今でこそ殴られたり蹴られたりすることはなくなりましたが、幅寄せはされますね。
最初の頃は苦労しました。
遠慮なく腕を振り回すから、頭や顔にあたるわ、背中や足を思い切り蹴られるわ。
DVだDVだ!
主人の方を向いて寝たことなかったですよ。
ド近眼の上に、正常眼圧緑内障という診断を食らっておりますので、
目でも殴られて、失明したりしたら目も当てられん。
布団の横に重たいテーブルがあったんですが、夜中ずっと主人はテーブルと戦ってましたよ(^0^;)
どすん!ばこん!という音で何度目が覚めたことか。
よくあれだけぶつけて目が覚めないよなぁ。
友人達と部屋が別でよかったよ。
苦情がくるとこだった(^◇^;)
やはりここには行かないとね。
『会津若松城』と言ったら、会津出身の友人に
「やっぱみんなそう呼ぶんだね。地元では『鶴ヶ城』って言うんだよ。」
と言われてしまいました。
そうかぁ、それではこれからは『鶴ヶ城』と呼ぼう。
しかし、上の看板の写真、誰が写したの?
すんごい曲がってたので、修正しました。
だから、なんで常にかたむいてるのー?(^0^;)
あ、これデジカメじゃなくて、一眼レフで撮ったのだから、私じゃないな。
・・たぶん(^◇^;)
すずめも寒そう。
更に前に両親と来たことがあるのですが、そのときはよく晴れていて、桜も満開で綺麗でした。
三春の滝桜を見に来て、ここに寄ったのに、父は
「俺は若松城には行ったことが無い!」
と言い切ったですよ(^◇^;)
母はちゃんと覚えてました。
「そうか、忘れちゃったんだね。」
と私が言ったら、やたら寂しそうに聞こえたのか、ずいぶん時間が経ってから、
「三春の桜、見に行った?そのときに寄った?会津で朝にラーメン食った?」
と。
父はずーっと記憶をたぐっていたようです。
「そうだよ!」
と答えたら、嬉しそうにしてました。
元々予定は会津のみだったのですが、
結構時間が早かったので、いわきまで足を伸ばすことにしました。
いわきはとても天気がよかったです。
同じ福島なのに。
そして、お決まりのように
前から『アクアマリンふくしま』という名前でしたかね?
内部は水槽より人物を多く撮っていたので、載せませんが、
1枚だけ、中から外を撮った写真がありました。
あの大震災の時、電車が止まってしまい、職場から家へ帰れませんでした。
主人は車で迎えに来てくれようと一生懸命色々な道を走り回ったようですが、
どこもすごい混雑で都心方面には進むに進めなかったそうです。
職場にはテレビもラジオもなかったので、
岩手と長野の友人と主人のメールで、震災の被害の大きさを知りました。
職場でもすごく揺れて、1階はそうでもなかったものの、
2階は棚の上の物が全て落ちて、足の踏み場もなくなってました。
つい最近、三重県南東沖、震源の深さ約420キロ(!)
マグニチュード6.55の地震がありました。
夜中の3時半だったのですが、しっかり目が覚め、
な、なんかヤバイかもと思いつつ、揺れがおさまるのを待っておりました。
スマホをつけて震源と震度を確認すると、
『三重沖が震源なのに、宮城で震度4 もっと近い所はそれ未満。』
の地図が目に入りました。
「え~?え~?なんでー?間違い?の、わけないし。」
夜中の3時半に考える頭は皆無。
次の日、主人にそのことを話すと、ちなみに主人は全然起きず。
「そんな夜中の3時半の地震はさすがに起きられないな。」
・・・よくわかっておりますよ(^◇^;)
でもさ、家が壊れる前に、安全な所に隠れないとなのよ。
そういうときは、ちゃんと起きてくれますよね。
気を取り直して、夕べ見た図の話をすると、全く信じてもらえず。
自分で、気象庁のHPで確認して、やっと信じてもらえましたよ。
『異常震域』というそうです。
でも、深さ420キロよりずっと浅い所で起こったら、かなり大きな地震になっていたのでは?
と、考えてしまいました。
これは、たぶん2003年の4月の始め頃だったと思います。
友人2人と主人と4人で行きました。
友人の1人が会津出身だったので、桜の時期だし行こうということになりました。
が、桜はですね、まだ固い蕾か、これは?が木に沢山あったくらい(^0^;)
おまけに天気が良くなく、雪がちらついてきて(^0^;)
以前、やはり4月の始めか3月の終わり頃に京都へ行きまして、やたら寒かったですよ。
清水寺で雪が降ってきて、帰りの関ヶ原付近で大雪になって、
除雪車の後ろをずっと走って帰ってきたことがあります(^◇^;)
関ヶ原を越えた途端、雪が降ってたなんてうせやろ(;゜ロ゜)となりました。
しかし、雪に慣れてる地域のナンバープレートをつけた車は早かったわ。
観光バスでさえ、「何とろとろ走っとんじゃ!」という感じでしたよ(^0^;)
確かに、うちとこも都心に比べたら雪は多い。
でも、高速道路上であんなになることはない(^0^;)
滅多に雪の降らない所で生まれ育った主人は無言・・・ひたすら無言・・・
会津では、ちらついたくらいで済んだので、よかったですが、
ずっと天気は良くなかったですね。
もう記憶がねー 会津のどこに泊まったんだったかなー?
主人に訊けばわかると思うのですが。
主人は寝相が素晴らしく悪いです。
今でこそ殴られたり蹴られたりすることはなくなりましたが、幅寄せはされますね。
最初の頃は苦労しました。
遠慮なく腕を振り回すから、頭や顔にあたるわ、背中や足を思い切り蹴られるわ。
DVだDVだ!
主人の方を向いて寝たことなかったですよ。
ド近眼の上に、正常眼圧緑内障という診断を食らっておりますので、
目でも殴られて、失明したりしたら目も当てられん。
布団の横に重たいテーブルがあったんですが、夜中ずっと主人はテーブルと戦ってましたよ(^0^;)
どすん!ばこん!という音で何度目が覚めたことか。
よくあれだけぶつけて目が覚めないよなぁ。
友人達と部屋が別でよかったよ。
苦情がくるとこだった(^◇^;)
やはりここには行かないとね。
『会津若松城』と言ったら、会津出身の友人に
「やっぱみんなそう呼ぶんだね。地元では『鶴ヶ城』って言うんだよ。」
と言われてしまいました。
そうかぁ、それではこれからは『鶴ヶ城』と呼ぼう。
しかし、上の看板の写真、誰が写したの?
すんごい曲がってたので、修正しました。
だから、なんで常にかたむいてるのー?(^0^;)
あ、これデジカメじゃなくて、一眼レフで撮ったのだから、私じゃないな。
・・たぶん(^◇^;)
すずめも寒そう。
更に前に両親と来たことがあるのですが、そのときはよく晴れていて、桜も満開で綺麗でした。
三春の滝桜を見に来て、ここに寄ったのに、父は
「俺は若松城には行ったことが無い!」
と言い切ったですよ(^◇^;)
母はちゃんと覚えてました。
「そうか、忘れちゃったんだね。」
と私が言ったら、やたら寂しそうに聞こえたのか、ずいぶん時間が経ってから、
「三春の桜、見に行った?そのときに寄った?会津で朝にラーメン食った?」
と。
父はずーっと記憶をたぐっていたようです。
「そうだよ!」
と答えたら、嬉しそうにしてました。
元々予定は会津のみだったのですが、
結構時間が早かったので、いわきまで足を伸ばすことにしました。
いわきはとても天気がよかったです。
同じ福島なのに。
そして、お決まりのように
前から『アクアマリンふくしま』という名前でしたかね?
内部は水槽より人物を多く撮っていたので、載せませんが、
1枚だけ、中から外を撮った写真がありました。
あの大震災の時、電車が止まってしまい、職場から家へ帰れませんでした。
主人は車で迎えに来てくれようと一生懸命色々な道を走り回ったようですが、
どこもすごい混雑で都心方面には進むに進めなかったそうです。
職場にはテレビもラジオもなかったので、
岩手と長野の友人と主人のメールで、震災の被害の大きさを知りました。
職場でもすごく揺れて、1階はそうでもなかったものの、
2階は棚の上の物が全て落ちて、足の踏み場もなくなってました。
つい最近、三重県南東沖、震源の深さ約420キロ(!)
マグニチュード6.55の地震がありました。
夜中の3時半だったのですが、しっかり目が覚め、
な、なんかヤバイかもと思いつつ、揺れがおさまるのを待っておりました。
スマホをつけて震源と震度を確認すると、
『三重沖が震源なのに、宮城で震度4 もっと近い所はそれ未満。』
の地図が目に入りました。
「え~?え~?なんでー?間違い?の、わけないし。」
夜中の3時半に考える頭は皆無。
次の日、主人にそのことを話すと、ちなみに主人は全然起きず。
「そんな夜中の3時半の地震はさすがに起きられないな。」
・・・よくわかっておりますよ(^◇^;)
でもさ、家が壊れる前に、安全な所に隠れないとなのよ。
そういうときは、ちゃんと起きてくれますよね。
気を取り直して、夕べ見た図の話をすると、全く信じてもらえず。
自分で、気象庁のHPで確認して、やっと信じてもらえましたよ。
『異常震域』というそうです。
でも、深さ420キロよりずっと浅い所で起こったら、かなり大きな地震になっていたのでは?
と、考えてしまいました。
奥多摩-水辺によせて1- [水辺によせて]
ここに載せた写真は、10数年前に主人が撮ったものです。
今まで書かなかったんですが、ぽちっとすると、大きな画像で見る事ができます。
自分が誰かの代わりだったと気がついたときは、かなりショックなものがあります。
何年も何年も大切な人の中で、自分が一番だと思い込んでいて、信じ切っていて、
あるとき、思ってもいないときにそうじゃないことが判明する。
『誰かの代わり』から解放されて『自分』に戻ろうとするときに、
そうさせまいとするものに阻まれ、
代わりとしようとする方が悪いはずなのに、
「お前が悪い」と責め続けられ、強大な罪悪感に苛まれ、
ようやくその存在から逃れたときには、もう精神はボロボロでした。
主人は、休みの度に気分転換になるだろうと、
ぼんやりしている私を色々な所へ連れ出してくれました。
実家以外に一番最初に連れて行ってくれたのが、この写真の場所でした。
奥多摩の、どの滝だったか?
更に10数年前なので、様相も変わっているかもしれません。
平日の午後だったので、他には誰もいませんでした。
周りがぼけているのは、水滴を撮りたかったようですよ。
紫陽花に色がつき始めた頃でしたね。
あの頃のことは覚えていないことの方が多いのですが、精神を病んではいなかったと思います。
何かを考えてしまうと、自分を責める方に向かうので、
無意識のうちに、あえて何も考えないようにしていたのだと思います。
外に出れば、緑が綺麗だったとか、木でできた小さな橋を渡ったとか、
滝の側が涼しかったなどと覚えているので、主人は休みの度に私を連れ出したのだと思います。
このとき、ロングスカートに、トレッキングでもできそうな靴をはいてました。
なんでロングスカートにトレッキングシューズだったんだろう?と思ってましたが、
たぶん、あう靴がなかったんでしょうね。
前の家から、そんなにいくつも靴は持ってきていませんでしたから。
この写真がなんだかとても好きなんですよ。
ここに載せた写真は全て一眼レフで撮ったものです。
フィルムをエプソンのスキャナーで読み込みました。
すごい解像度で読み込んでしまったので、かなり落として載せました。
私を『誰かの代わり』としていた人は、そのことに今も気がついていないでしょう。
何故私が離れたのかも、本当のところはわかっていないと思います。
元々本物が手に入らないから、『代わり』を手に入れて我慢していたんですよ。
所詮、『代わり』は『代わり』でしかないんですよ。
今まで書かなかったんですが、ぽちっとすると、大きな画像で見る事ができます。
自分が誰かの代わりだったと気がついたときは、かなりショックなものがあります。
何年も何年も大切な人の中で、自分が一番だと思い込んでいて、信じ切っていて、
あるとき、思ってもいないときにそうじゃないことが判明する。
『誰かの代わり』から解放されて『自分』に戻ろうとするときに、
そうさせまいとするものに阻まれ、
代わりとしようとする方が悪いはずなのに、
「お前が悪い」と責め続けられ、強大な罪悪感に苛まれ、
ようやくその存在から逃れたときには、もう精神はボロボロでした。
主人は、休みの度に気分転換になるだろうと、
ぼんやりしている私を色々な所へ連れ出してくれました。
実家以外に一番最初に連れて行ってくれたのが、この写真の場所でした。
奥多摩の、どの滝だったか?
更に10数年前なので、様相も変わっているかもしれません。
平日の午後だったので、他には誰もいませんでした。
周りがぼけているのは、水滴を撮りたかったようですよ。
紫陽花に色がつき始めた頃でしたね。
あの頃のことは覚えていないことの方が多いのですが、精神を病んではいなかったと思います。
何かを考えてしまうと、自分を責める方に向かうので、
無意識のうちに、あえて何も考えないようにしていたのだと思います。
外に出れば、緑が綺麗だったとか、木でできた小さな橋を渡ったとか、
滝の側が涼しかったなどと覚えているので、主人は休みの度に私を連れ出したのだと思います。
このとき、ロングスカートに、トレッキングでもできそうな靴をはいてました。
なんでロングスカートにトレッキングシューズだったんだろう?と思ってましたが、
たぶん、あう靴がなかったんでしょうね。
前の家から、そんなにいくつも靴は持ってきていませんでしたから。
この写真がなんだかとても好きなんですよ。
ここに載せた写真は全て一眼レフで撮ったものです。
フィルムをエプソンのスキャナーで読み込みました。
すごい解像度で読み込んでしまったので、かなり落として載せました。
私を『誰かの代わり』としていた人は、そのことに今も気がついていないでしょう。
何故私が離れたのかも、本当のところはわかっていないと思います。
元々本物が手に入らないから、『代わり』を手に入れて我慢していたんですよ。
所詮、『代わり』は『代わり』でしかないんですよ。